ハニーランド 永遠の谷のレビュー

14th September 2020

監督:タマラ・コテフスカ、リューボ・ステファノフ
出演:ハティツェ・ムラトワ、ナジフェ・ムラトワ、フセイン・サム、リュートヴィ・サム
時間:89分

『ハニーランド 永遠の谷』は奇跡のドキュメンタリーだ。欧米諸国での本作品の成功は、実際にチケットを買って映画を見て、驚嘆し事実を知った観客にかかっているだろうし、もし、マケドニアの養蜂家についての映画を撮ろうという法外な考えが浮かんだとしても、果たして主題となるほどの養蜂家を見つけることができるだろうか? まずマケドニアに行ってみるのも手だが、この映画の主人公ハティツェのように、寝たきりで盲目の母親と石造りの小屋で自然と共に暮らすような人物が電話帳に載っているはずもない。監督のタマラ・コテフスカとリューボ・ステファノフはどうやってハティツェと出会ったのだろう? 蜂の羽音に導かれたのだろうか。

彼らが持ち帰ったのは、3つの衝動から生まれた映画だった。一つは、ほとんど途絶えてしまった職人の伝統を守ること、そして、自然と共に暮らす者の生き方を記録すること、最後に古き良き時代を見つめることである。撮影された映像は、養蜂家ハティツェの驚くべき生活を掘り下げただけでなく、そこで語られるすべてが目を離すことができない貴重な記録となっている。この中年の養蜂家が高く切り立った断崖を登り、石を取り除くと、そこに蜂が飛び回る大きな巣があらわれる。ハティツェは素手で蜂の巣を採取し、スコピエの市場に売りに行く。ハティツェはその自然の巣箱を離れるとき、飛び立った蜂たちが巣に還って来れるようにいつも地面に野生の蜂蜜をたらしておくのだ。

しかし、『ハニーランド 永遠の谷』の平和な生活は、遊牧民の一家がトラックで隣に越してきたことで変貌する。フセインとその妻、たくさんの子どもたちに牛やアヒルがやって来た。映像は混とんとしてゆく状況を映し出す。蜜蜂の優しい羽音は、鳴き立てる家畜の声や夫婦の言い争い、押し合いへし合いし遊びまわる子どもたちの騒ぎ声ににかき消される。ホームコメディの作家なら喜んで飛びつくような厄介な隣人登場のシナリオであるが、フセインが養蜂業に興味を示したことでハティツェの質素な暮らしは混迷していく。

『ハニーランド 永遠の谷』が賞賛された理由の一つに、その特異な視点が挙げられる。物語の中盤では、伝統的な教えを無視する生き方に対して風刺を含んだ描き方がされている。ハティツェが這いつくばりながら、川にかかる倒れた木の幹を叩き、中にある蜂の巣を探すのに対し、フセインは仲間とチェーンソーを持って現れてその木を切り刻んでしまう。コテフスカとステファノフの監督コンビは、まるで蜂のようにハティツェの周りを飛び回るわんぱくな隣家の子どもたちに対しても忍耐強いヒロインの姿と、アニメのシンプソンズに出てくるホーマーのような間抜けな人物として描かれる元ユーゴスラビア人のフセインを皮肉な対比で表わしている。フセインが蜂の巣を採取すると、2平方マイルにいる人はみんな怒った蜂に刺されてしまうというように。

しかし、フセインが蜂蜜の増産を始めたとき事態は変わってしまう。一人で養蜂を営むハティツェは決してやらなかった方法だ。間もなく、フセインが持ち込んだ大量の蜜蜂の群れは、この土地に元から生息するおとなしいハティツェの蜂を駆逐していく。牧歌的で琥珀色の映像は、無法の市場経済に対する鋭い批判の視点に変容する。ここに大きな飛躍のレトリックが用いられているが、人と蜜蜂について一様に微視的で詳細な観察を行い、有機的で非常に優れた編集方針に基づいた作品となっている。この映画製作者たちは、物語の背景にある意味を過剰に語らず、例えば、フセインによって窮地に立たされたハティツェが山の中腹に火をつけるに至るまでのシーンのように、カットの選択という実に映画的な方法で伝えようとしている。

映像におさめられた小さな奇跡は見る者を徐々にドラマに引き込んでいく。寝たきりの母親の面倒を見ながら人里離れて暮らすハティツェ、そこに厄介な隣人が越して来て土地の自然を食い尽くそうするところでは、心の痛む不正義が浮き彫りにされる。この監督たちがどうやってハティツェを見つけ出したのかは分からないが、聞かずしても、ハティツェらが暮らす薄暗いあばら屋の傍らでいくつもの季節を過ごし、すべてを捧げて撮影を行ったことは理解できる。今や、ドキュメンタリー映画はほとんどのフィクション映画よりも惜しみない不断の努力をもって製作されているが、『ハニーランド 永遠の谷』の興行成績を見れば彼らの努力にふさわしい素晴らしい賞賛を得ていることは間違いない。

マイク・マッカヒル